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「ペリー日本遠征 随行記」を読んで、ペリーの歩いた横浜を歩く

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目次

ペリー通訳の記録から歩く横浜|随行日記に導かれた開港史跡さんぽ

はじめに:市民講座の帰り道、図書館で出会った1冊

毎週土曜日、神奈川大学の市民講座に通っています。せっかく大学へ来たのだからと、その帰りは決まって図書館に立ち寄るのが習慣に。

本来なら講義と関連する書籍を読むのが良いのでしょうが、そこは自由研究。気ままに、そのとき気になる本を手に取っています。

ある日、ふと目に留まったのが『ペリー日本遠征 随行記』という1冊。ペリー艦隊に通訳として同行していたサミュエル・ウィリアムズが残した記録で、なんと170年前の出来事が、驚くほど現代的な語り口で綴られていました。

とくに横浜に関する記述が多く、「これは現地を歩いてみたくなる!」という気持ちがむくむくと湧いてきました。今回はその記録を読みながら、実際に史跡をたどって歩いたレポートをお届けします。

図書館で出会った『ペリー日本遠征日記』

ペリー日本遠征 随行記 通訳ウィリアムズが見た“開港前夜の横浜”

応接所と小さなお宮(弁天様)

1854年、日米和親条約が横浜村で締結され、ペリー一行は条約後に“気晴らしの散歩”へと出かけます。その記録の中で印象的だったのが、次の一節です。

「火砲が最高の贈り物らしく、日本人たちは即座に大砲の模倣に取り掛かった様子。電信舎に立ち寄り、小さなお宮に入り、本尊は木の根を彫って作ったもののようだった。」

この“小さなお宮”は、のちに厳島神社へ移された弁天社のこと。かつて横浜村の砂嘴の先端にあり、外国人を迎える玄関口にもなっていたそうです。

厳島神社(旧 弁天社)

土手沿いの水田と西の丘(山手)

一行は土手沿いに水田を抜け、西(実際は東)の丘へと向かいます。

「木々の多い美しい峡谷に下り、小さな寺に立ち寄った。椿、桃、梅が咲き誇り、住民が見物に来たが、役人は近づけさせなかった。」

この“寺”は現在の諏訪町・北方小学校のある場所にあった東漸寺だとされています。のちに日本初のビール工場が建ち、その跡地が小学校に——という変遷も興味深いです。

北方小学校跡(旧 東漸寺)


名主の家で見た30年物の松と暮らし

条約締結後、ペリーは村の名主(庄屋)宅を訪ねています。

「松は高さ4フィートの幹から、傘のように直径20フィートの枝を広げていた。娘と孫が現れ、応接。役人たちは彼らをまったく無視していた。手土産もなく、その家を後にした。」

ペリーはこの名主の邸宅を“代官屋敷”と誤解していた可能性があり、その道は今も「代官坂」として残っています。現在も子孫の方が住んでいらっしゃるとのこと。

代官坂・旧石川家住宅

旧石川代官所長屋門 · 神奈川県横浜市中区元町2丁目108
旧石川代官所長屋門(代官坂の由来)

旧石川代官所長屋門 · 〒231-0861 神奈川県横浜市中区元町2丁目108

★★★☆☆ · 史跡


記録から現地へ:開港の記憶をたどる横浜さんぽ

外国人墓地と“最初の埋葬地”

ペリー艦隊の乗組員で亡くなった方が、一時的に埋葬されたという場所も記されています。その墓はのちに下田に移されたものの、その場所が起点となって、横浜山手外国人墓地が形成されていきました。

生麦事件犠牲者の墓 · 横浜山手町
生麦事件犠牲者の墓(外国人墓地内)

生麦事件犠牲者の墓 · 〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町

★★★★★ · 墓地

横浜外国人墓地(生麦事件犠牲者の墓)


日米和親条約調印の地と開港資料館

そして最終地点として向かったのが、日米和親条約が締結された地。現在は開港広場公園として整備され、敷地内には開港資料館もあります。

横浜開港資料館 外観
横浜開港資料館(旧英国領事館跡)

資料館に入ると、ペリー上陸当時の資料や地図が展示され、閲覧室には開港以来の古地図も。中庭には、上陸絵にも描かれた「玉楠の木」が今も根を引き継ぎ生きています。

開港資料館の中庭に残る玉楠の木
関東大震災で焼失後も、根から再生した「玉楠の木」。

この絵の右側の大木がペリー来航時代の玉楠。現在の木は、その根から芽吹いた二代目です。

横浜開港資料館の展示絵葉書
横浜開港資料館の絵葉書より。右手の大木が玉楠。

横浜開港資料館


まとめ:本と歩くと、歴史が立体になる

170年前の通訳が書き記した言葉を片手に歩いた横浜は、いつもの街とはまるで違って見えました。

同じ場所、同じ道を歩いていたはずの人たちがいて、その暮らしや感情を想像することで、史跡が「生きた場所」に変わる感覚がありました。

横浜にはまだまだ、そんな“開港の記憶”が眠っています。次はどんな記録と、どんな道で出会えるか、楽しみにしています。


毎週土曜日 神奈川大学の市民講座に通っていますが、その時は必ず図書館によるようにしています。本来は授業の関連の本を読んだりするのが良いのでしょうが、まあそこは気楽に。その時どきの読みたいものを手に取るようにしてます。

先日はペリーの日本遠征に随行した通訳の日記を読んでみました。読んでみると170年前の文章とは思えない読みやすさ。この筆者の感性がかなり現代的なのだなと思います。今読んでもあまり気になるところがない。差別的な表現とかもなくて。

1854年から始まるこのペリー随行記には、沖縄、小笠原、下田、横浜などの土地が出てくるのですが、やはり横浜関連の記述が気になります。色々な折衝の末に日米和親条約に至る横浜滞在記録を中心に読んでみました。

和親条約調印後にペリーが横浜村の庄屋を訪ねた記録があります。その家は今も横浜元町に残っていて子孫が住んでいるようです。その辺りの記述を探してみます。

4月6日 木曜日。今日は、ペリー提督と一行が散歩に上陸した。榴弾砲と砲車2両それにお茶10箱がこの地の役人への最後の贈り物として陸揚げされた。火砲が最高の引き出物とみなされているのは疑うべくもない。第1問は「弾薬は?」であり「実弾射撃を見せてほしい」とせがまれた。日本人たちはこの砲に似せて直ちに大砲の鋳造にかかり、大砲さえ作ってしまえば、彼ら自身で外国の侵略に抵抗することができると考えているのではなかろうか。応接所でお茶を振る舞われた後、一行は前に設けた電信舎の方へ向けて出発し、小さなお宮もしくはお寺に入った。彫像3体と位牌数個が並べてある。本尊は木の根を彫って作ったもののように見受けられた。碑銘は全て漢字で書かれていたが惜しむらくはその説明を聞く時間のゆとりがなかった。

応接所

条約締結の地に急ごしらえで応接場などが建築されていたようです。

📍日米和親条約締結の地 · 〒231-0021 神奈川県横浜市中区

★★★★☆ · 史跡

日米和親条約締結の地(開港広場公園)

小さなお宮(弁天様)

横浜村砂嘴の先端にあった弁天様。その後、東大ができたりして現在は関内駅近くの厳島神社に移設されました。

📍洲干弁天社 本殿跡地 · 〒231-0011 神奈川県横浜市中区太田町6丁目73

★★☆☆☆ · 史跡

洲干弁天社 本殿跡地(現 厳島神社)

土手沿いの水田と東漸寺

ここから土手沿いに水田を突き切り、横浜の西にある丘を登った。やがて樹木の多い綺麗な峡谷へ下って、小さな寺でしばしの憩いを取った。そこは椿・桃・梅が咲き誇り、陽気がさらに気分を高めたという。土地の住民が外国人を見物しようと集まってきたが、護衛の役人は近くへ寄せ付けなかった。

☆この“峡谷の小さな寺”は東漸寺と考えられています。今は移転し、跡地は日本初のビール工場になり、さらに小学校(北方小学校)へと変わりました。

📍横浜市立北方小学校 · 〒231-0863 神奈川県横浜市中区諏訪町29

★★★☆☆ · 小学校

横浜市立北方小学校(旧 東漸寺跡)


📘参考文献:サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ『ペリー日本遠征随行記』(講談社学術文庫)

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